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プラモデル茶道論

20220922_プラモデル茶道論

以前、釧路のプラモデル屋「ミヤケ模型」にお邪魔したとき、たまたまファインモールド社の社長さんにお会いして楽しくお話させていただいた。

そのなかで「プラモデル茶道論」というのがあってつまるところ
・プラモデルはイラストが印刷されたボール紙の箱に入っている
・プラモデルはランナーに部品が付いている
・ランナーはビニールの袋に入っている
・プラモデルは白黒印刷の組み立て説明書がついている
これらの条件を満たして初めて「プラモデル」と認識される。
というお話。

そしてお客さんもそういったお約束にはまったものを「プラモデル」として愉しむ。
という。

これがたとえば流通や入手のしやすさ、コストなどの観点から
・外箱をダンボール
・梱包材にプチプチを使用
・説明書はpdfでダウンロード
と変更するととたんに「プラモデル」ではなくなる。

「茶道の[お手前]を愉しむように、プラモデルのお手前を愉しんでいる」
のだそうな。

これがなかなか納得して、たしかに「プラモデル買うぞ!」と言ってぱっとイメージがつくのがそういった要素のあるものが欲しくなる。
そして作るのが目的ではなく、その梱包された一式を愉しんでる場合もままある。

こういった「お手前を愉しむ」のはなにもプラモデルだけではなく、色々なジャンルに当てはまる。
そして一大コンテンツ、となるものにはこういった「お手前」がある。
自分がメシのタネにしているゲーム産業でもそうで
ジャンルごとにお約束がある。

自分自身の開発者経歴では、初めはプレイステイション2から始まり、XBOX360や、任天堂3DSやらWiiやらガラケーやらスマホやらを経由して、今は任天堂スイッチ向けのコンテンツ制作。特に3Dグラフィック関係に長く従事しているわけだけども。
こうやって中でモノつくってると「グラフィックの進歩」というのが「リアル志向」「豪華志向」へと向いていってるのが、そこそこの規模の会社でのビデオゲームコンテンツとしては定番の流れとなる。

方やインディーズと呼ばれる新進スタジオからリリースされるものでは必ずしも「リアルで豪華なもの」ばかりではない。
手間をかけて絵として「完成しました」というところに至っているのはそうなのだけど
「実写と同じ」や「ディティールが精緻」といった事が絵作りの価値観の根底ではなく、一要素に過ぎない状態になっている。

10年ほど前からドット絵が見直され、ひとつの表現形態として今は確立されている。
ドット絵は象徴的なことで、他にも「解像度が低い」「ポリゴンが荒い」「ブラウン管の走査線出てる」とか。そういったものがお手前の一種となっている。

テクノロジーは科学であるので前に進むのだけど「文化」のフィルターを通すと前に進むばかりが愉しみではないことが見て取れる。
前に進むのが足し算と考えるなら、その逆の引き算をして新しい「お手前」を見せるのが文化が持っている力といえる。
そしてその文化のチカラを強くするのが教養になる。
教養があると「マイナス要素」も愉しむことが出きる。
そしてその「マイナス要素」を「お手前」としてまとめ上げられたら、表現(art)として確立するのだとおもう。
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