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プラモデル茶道論

20220922_プラモデル茶道論

以前、釧路のプラモデル屋「ミヤケ模型」にお邪魔したとき、たまたまファインモールド社の社長さんにお会いして楽しくお話させていただいた。

そのなかで「プラモデル茶道論」というのがあってつまるところ
・プラモデルはイラストが印刷されたボール紙の箱に入っている
・プラモデルはランナーに部品が付いている
・ランナーはビニールの袋に入っている
・プラモデルは白黒印刷の組み立て説明書がついている
これらの条件を満たして初めて「プラモデル」と認識される。
というお話。

そしてお客さんもそういったお約束にはまったものを「プラモデル」として愉しむ。
という。

これがたとえば流通や入手のしやすさ、コストなどの観点から
・外箱をダンボール
・梱包材にプチプチを使用
・説明書はpdfでダウンロード
と変更するととたんに「プラモデル」ではなくなる。

「茶道の[お手前]を愉しむように、プラモデルのお手前を愉しんでいる」
のだそうな。

これがなかなか納得して、たしかに「プラモデル買うぞ!」と言ってぱっとイメージがつくのがそういった要素のあるものが欲しくなる。
そして作るのが目的ではなく、その梱包された一式を愉しんでる場合もままある。

こういった「お手前を愉しむ」のはなにもプラモデルだけではなく、色々なジャンルに当てはまる。
そして一大コンテンツ、となるものにはこういった「お手前」がある。
自分がメシのタネにしているゲーム産業でもそうで

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作品作りにおける文芸の考え方

最初は「コンテンツ作りにおける文芸の考え方」という内容にしようかとおもってたけど、コンテンツというと売り物に限定してしまうので、「作品」と改めた。
売り物も個人の表現物でもというくくりで、媒体は絵でもゲームでも文芸でも関係なしに、大まかに「作品」としている。

作品つくりをしていていまいちな出来になったり「良いか悪いかどうなのかわからない」という現象に陥ることがわりとある。

こういうときは「なにを主眼とした作品か?」というところにはっきりとした立ち位置がないから、ゴール不明、自己評価不明になってしまう。

自己評価や他者評価はその作品をどうしたいのかで変化する。
ある晩、ギャラリーバーにあった雑誌でヌード絵画の作者による寄稿をみかけて、それが面白かった。

「下手であればあるほど完成度が高い」という価値観で評価していた。

「技術的にここをああしたらかっこいいとか考えたらだめなんです」
「描くときはとにかく気持ちいいところを目指しています。完成時に誰が見ても下手なものが作りたい」
というもの。

この考え方は「その作家の芸術作品」に於いての価値判断基準ではあるけどその根っこは「自分が欲するものにまっすぐ取り組む」という考え方。

僕が今取り組んでるオリジナルIPの作業過程において「自分が持っている情報を雑念なしにまっすぐ出せれば、完成するだろう」と当初考え今実行中なのです。
この根っこにあるのが「作業者が自分しかいないから」だから「企業的な多数で検討に検討を重ねてクリティカルなものを作る」という方法が採れないから、こういう考えをもとに帰結したのです。
つまり、コストがないから自分を100%使い切ることを念頭においた考え方なので偶然といえば偶然なのですが、その考えの着地点として、自分から出るものを小細工なしに形にする。というものつくりの原体験的なものなのです。

人間社会にでれば波にもまれて若いころの角やとげがなくなり丸くなるのです。
初めて絵を描いたときは誰に見せるわけではなく自分が心地よいものを求めていたとおもう。それをやろうというわけです。
大人になるとなかなかそれをやるのが気恥ずかしくなってしまう。

ペンネームを作る。
というのは作者と作品を切り離すことができるので、その気恥ずかしさを乗り越える一助になるとおもう。

すくなからず「これを見た人は僕のことどう思うだろう?」という雑念に悩むことがなくなる。
見る人と作る人の人間関係がなくなると、ストレスの8割が消える。

作品を見るひとも、その作家の内面など気にしないで、「自分がどう感じたか」のその一点にこそ、作品との出会いの価値ではないか。

ゆめゆめ、忘れないようにしたい。

日本にとって都合の良い露宇戦争の結末

――2022年02月24日、かねてからウクライナ国境線近くに展開していたロシア軍が、一斉にウクライナに雪崩れ込んだ。

2022_Russian_invasion_of_Ukraine.png


 二十一世紀に入ってからの大国同士の正規戦であり。両者ともに航空優勢が取れないまま、戦力をぶつけ合う。一つ間違えれば、連鎖反応を起こしかねない。そういう戦争だと言われている。もっとも、ロシア国内向けには「特別軍事作戦」と説明している。これは「戦争」と定義してしまえば、ジュネーブ諸条約などに縛られるため「戦争」にしたくないと言う思惑もある。

 戦時国際法に多く違反し続けるこの大規模紛争(何せロシアが戦争と認めていないので、紛れも無い戦争なのだが、ここは紛争と書く)だが、その落としどころ次第によっては、わが国。つまり日本にとってありがたくない結果となる。

 では、私達にとって不都合な結果とはどのようなものだろうか。それは……

・ロシア軍が圧倒的な勝利をもぎ取り、ウクライナの領土の数分の一がロシア領になる

 言うまでもなく、今回の侵攻は経緯はどうあれ。その目的は「地図の塗り替え」に他ならない。侵攻当初、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国が熱烈にロシアを支持した背景を紐解くと。中国は、台湾(中華民国)を併合する口実になるから支持。北朝鮮に至っては、休戦状態にある朝鮮戦争を再開することが出来る。

 しかし、こいつらが調子に乗って困るのが日本という国だ。朝鮮戦争の再開そのものは大した影響はないだろう。
 一方で、中国軍が台湾に大規模侵攻を行った時、何が起こるかと言うと米国の本格介入。場合によっては、台湾亡命政権が日本に落ちのびてくる可能性すらある。そうなると、日本が戦禍に包まれることは最早確定事項になる。これはいかにもマズイ。

・ウクライナ軍が押し返し越境。ロシア軍が戦術核兵器を使っちまう

 誰しもが恐れ、ロシア政府首脳陣がプルプルしながら「NATOが押しかけて来たら、それはつまり……そう言うコトだよ!」と言ってやまない核兵器。広島・長崎の壊滅を以って、数百倍の威力を持った核兵器をロシアを含め、G7各国も持っている。一度核がぶん投げられた暁には、そりゃ誰しも躊躇する理由がなくなってしまう。
 北朝鮮も中国もノリノリで核戦力を拡充している現在。ロシアが戦術核を使用してしまえば、七十年以上実戦で使われることが無かった核兵器の引き金はゆるゆるになるに相違あるまい。

 流石に、北朝鮮やら中国やらがポップにぶっ放すとも思えないが、三度目の被爆はごめんだ。そうだろう?
 ゆえにウクライナには越境攻撃は程々に、自国領土の防衛と奪還のみに努めて貰いたい。

――では、理想の終戦の形は?

 これは、簡単だ。あと一年くらいは、ロシア・ウクライナが通常兵器と兵力でつぶし合い。平等に衰退してくれることである。
 それでいて、ウクライナには、東部諸州を奪還し、統治権を回復。ロシア軍は、併合済みのクリミアで満足し。その辺りが落としどころになるだろう。この結末に落ち着けば、地図を塗り替えるには建前だけでも住民投票が必要なことが再確認される。ついで、ウクライナが東部諸州を奪還することで、戦力をもって領土を拡大することは出来ないのだと言う……中国・北朝鮮への強力なメッセージになる。

 私達が、浸かっている半径数メートルのぬるま湯がごとき平和を、そのまま守るためには、外国人の尊い犠牲がある程度必要なことを、我々は知った上でふてぶてしくしていなければならない。

著:藤 秋人 2022/06/10

シンカテゴリ「金」~大手のクソアニメを見ようの会

新カテゴリ 「金」 です。
読んで名の通り、キン。
貨幣と言う意味のおかね、宝飾品としてのきん。
二つの意味合いです。

なにかっつうと、人類はキンを長いこと「価値のあるモノ」と思い込んで、それぞれの経済の中の基盤のモノとしてきました。
そしてその昔「金時計」というものがあり、時計の部品を全部金でつくることにより、経年での変質がなく、常に一定の時間を刻むことが出来それは「時計という機械として価値が高い物」だという論法です。
しかし、東南アジアの安価なクオーツに押されて機械式時計の価値はどんどん下がっていきました。
そんな状況を覆すべく時計師のラングがシースルーバックを開発。
いわゆる裏スケで、腕時計の背面がガラスになっていて中身が見えるというやつですね。
コレが爆発的にヒットし、機械式腕時計の市場はV字回復したという話です。
1982年のことでした。
この話はモトモト時計が金で付加価値をつけていたのを、技術的工夫でステンレスに意匠を伴うことでその価値をあげる。
いわば錬金術なわけです。
経済的な言い回しになりますが。

ぼくらコンテンツ開発マンも、言ってしまえばこの錬金術をやっているわけなのです。
さてそんな夢のような仕事ですが、失敗の方が多い。
だから今期のクソアニメを視聴して研究することは、実に理にかなったやりかたなのです。

そう。
ガンダムでおなじみのサンライズがここ最近の新作で、ドベのクソアニメ・クソコンテンツばかり作っているのが不思議で、いろいろと方々に発破をかけて情報を収集すると、どうにもバンダイナムコが企画に発言権を行使してるそうなのです。
ゲーム屋がゲームではなく、コンテンツの物語性そのもので売りに出たのですが、はっきり言ってゲーム屋の物語作りは素人も同然なのです。
「オタクはこういうの好きなんでしょう?(鼻ほじ)」なチョンボなものしか出せなかったという印象。
ガールガンと境界戦記ですね。
境界は二期がはじまったので見なければならないのです。ぶすぶす。

あと大クソアニメといえばエクスアームがそれですね。
なんか実写系のスタッフをかき集めて3DCGでマンガ映画を作ろう見たいなノリりですが、こちらも素人の烏合の衆だったのだろう。
ゴミでした。
カスの極みです。
なんの実績にもならないスタッフの時間を泥棒しただけでした。
死に値します。



さてゲーム屋さんは物語作りの素人、と書きましたがソレはなぜか?

そりゃナカにはスゴイひともいるのですが、基本は素人です。
それ以下かもしれません。
なぜなら、ゲームは直接的な体験を提供するので、物語性というものがあまり複雑なものを求められないからです。
ひどい企画だと、いままで一度も小説を発表したことがないひとが、いきなりポンと物語のハンドリングを担わなければならなくなってしまうことも、あるかなと思います。

体験が主眼なので物語がおまけ、としましたがここには合理性があって「物語が難解すぎると体験への意欲が高まりにくいから」なのです。
つまりですな。
主人公は古風な「父親を超えるべく旅に出る亡国の王子」でヒロインは「囚われのお姫様」であり「幼馴染の世話焼き女房がついてくる」なベタベタな三角関係でボーイがミーツでガールして良いのです。

物語を純粋に見て楽しむのであれば、それはあまりにもヒネリがなく面白みがないのですが、イザ自分でその主人公になり選択肢をつきつけられたり、ヒロインを奪取するために戦ったり、そのモチベを維持したり、その世界に没入する。
ということになると、やっぱり物語はシンプル極まりないほうがよいのです。
これはゲームメディアのメカニズム的なことなので問題ではないのです。

たぶんガールガンと境界戦記ですが、ゲーム開発でいくつかヒット作を作った方が、勘違いされて企画のコアな部分に対しての発言権を与えられてしまったのでしょう。
サンライズはそのむかしに「文芸室」があったのですが、重鎮のご退職とともに潰してしまったそうなのです。
文芸室が残っていたとしたら新規企画にたいして「ソレつまりません。金をドブにすてるようなものです」と言っていたのでしょうか?
それは定かではありませんが、境界戦記とガールガン、プラモデルが地獄のように在庫しているのでコンテンツそのものがファンに受け入れていない証拠かと思います。

なのでみなさま、ガールガンと境界戦記


見ろ!

ハードボイルド・エヴァーガーデン

俺の名は、ヴァイオレット・エヴァーガーデン……通りすがりの自動手記人形さ。

 今日も、郵便社の自席で手紙を代筆する日々。

 そう……何処かのロマンティック野郎が、タイピストのことを「自動手記人形」とか言い出したのが全ての元凶。
 以来、俺達みたいなのはドールと呼ばれるようになった。

 これがケチのつきはじめさ。

 アイという言葉がトンと分からなかった幼い俺も、今だ生死も分からぬ少佐殿……ギルベルト少佐……コイツのことを考えると肺やら心臓のあたりがキュウっとなるようになった。よもや、気胸や心臓病ではあるまいな。そう同僚に言うと爆笑された。イマイチ解せねぇ。ただひとつ薄っすらと分かってきたことがある。今生の別れをも覚悟したあの作戦の日、少佐が言った「アイシテル」こいつを、今の俺は少しだけ分かる様になった。

 アイツのことを考えると正直、制御が効かなくなる。ブチ取れた腕の代わりに据え付けられた冷たい機械の義手が、あらぬ方向に動きそうになって大層焦る。部屋の中の物をぶん投げて、俺は叫ぶ。

「どうして、どうして、どうしてなのですかっ!」

 えっ……キャラが違う? そりゃあ、お前。俺、女だもの。戦災孤児を拗らせてチャイルドソルジャーやってた頃から、俺は俺だった。ところがそんな俺を引き取って、前線に駆り出したかと思えば。作戦の合間合間に、読み書き算盤、言葉遣いのイロハニホヘトを仕込んでくれたのが件の少佐殿だった訳よ。
 果たして、俺の口からは「私は」と出る様になり「お客様がお望みであれば何処へでもお伺いします。自動手記人形バイオレット・エヴァーガーデンです」とスラスラ出力される始末。

 ホッチンズ中佐……じゃない違う違う、社長も大層この言葉遣いを気に入ってらっしゃる。同僚のウケもいい。
 なら、こんな煙臭い喋り方なんてやっても中々上手くいかないだろ。それにな、意外と美少女らしいぜ、オレ。

 まぁ、そんな話は良いんだ。

 「アイ」について考えれば考えるほど、少佐の「アイシテル」を思い返す度。俺の制御はどんどん利かなくなった。
 無性にアイツに会いたくなった。

「少佐は……少佐はどちらにいらっしゃるのですか。お元気なのでしょうか、それとも何処かで傷を負っていらっしゃるのでしょうか」

 オイオイ、やめてくれよ。本当にどうにかなっちまいそうで、走って、走って。遂に奴さんの墓に辿り着いたとき、溢れてきたのは涙だけだったって訳よ。理解できない自分自身、そしてどうしようもない現実。それでも、脳裏からこびりついて離れない呪いの言葉。

『愛してる』

 俺は、頭を抱えた。何日も郵便社にある寮の中で頭を抱えた。処理しきれない思いの丈をタイプしまくった。
 でも、なにも変わらねえ。ギルベルト少佐は、俺を抱きしめてくれない。胸のブローチと同じ色をしたあの優男の目、幼い自分に伸ばされる手すら取ることが出来なくなってしまった、機械の義手をつけた俺。

 そりゃあな、前の戦争で散々殺しまくったんだ。ある意味、この結果はなるべくしてなったのかも知れねえ。最終決戦のあの夜。少佐と最後に交わした言葉。脳内麻薬が回っていて分からなかったが、両腕ブチ取れて少佐引き摺ってた俺は、あの時死んだんじゃないか? そう思っても仕方がないくらいの出血だった。

 ただな、黙って聞けよ。この機械の義手は中々役に立つ。少なくともギルベルトを咥えて引っ張ってた夜の戦場の不便さから比べれば雲泥の差なんだよ。そう、この義手こそ、我が戦争の記憶、闘争の記憶、そして少佐との別離はたしかにあった。薬キメて今も軍病院でボーっとしているカカシじゃねえって事がハッキリわかる。

「アイシテルを知りたいのです」

 そう、ぶち上げて。沢山の手紙を書いた。人間ってのはどこまでも不思議だ、俺の義手は何日かに一回機械油を差してやらないと動かす度にジジイがファックする時に出すような掠れた声を挙げやがる。だから、手入れは怠っちゃいけねえ。そんなオンボロだよ。だが、その義手を通じて俺が代筆する手紙で、涙腺が決壊する奴がいる。去り行く自分の意志を遺す奴もいた。

 いつしか俺は、ライデンシャフトリヒでも有数のドールとして認知される様になったよ。
 驚きだね。

 知らずの内に、俺の心の中で「アイシテル」は「愛してる」に変わっていたことに気付いた。
 だが、全ては手遅れだ。もうギルベルトはいねえ。少なくとも、ここには。

 ただ墓には遺体はなかった。

 行方不明なのだそうだ。軍の奴等も大概使えない。そう考えると、まだほんの少し、ともし火程度の希望がある様に思えねえか。

 希望的観測? そうだよ。思い出に縋ってる? そうだよ。

 俺がギルベルトの事を愛してる? ……かもしれねぇ。いまなら少しだけ分かるのさ「アイシテル」ってやつが。

 ああ、俺のことが知りたい?

 散々喋ったつもりだが、まだ聞き足りないのか。俺の名はヴァイオレット・エヴァーガーデン。通りすがりの自動手記人形さ。

 おっと、列車が発車する時間だ。またお前とも、どこかで会えるかもな。手紙を代筆して欲しいならC.H郵便社のヴァイオレット・エヴァーガーデン宛に電話を掛けな。

「お客様がお望みであれば、どんなところにでもお伺いします。自動手記人形サービス。ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

 こいつが聞きたいんだろ。分かってるよ。